[2026年9月7日]
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源頼政は平安時代末期の源氏の長老で、平氏の専横に業を煮やして、平氏打倒の以仁王の令旨(王子等からの命令書)を諸国の源氏一族に飛ばした人物です。いわゆる「治承の乱」ですが、頼政は宇治平等院の戦いで敗れて自害しました。
結縁寺の周辺には、源頼政伝説がいくつも残されています。
(1)じごくそばの伝説と頼政塚
源頼政は死ぬ間際、自分の首が敵の手に渡ることを恥じて家臣に首を持って東国へ逃げるよう命じたといいます。家臣は頼政の愛馬に乗り、首を背負って坂東へ落ちのびます。そして結縁寺の近くを通りかかったところ、背中の首が重くなり、馬も立ち止まって動かなくなりました。ここに埋めよ、ということだと悟った家臣は、ちょうど近くで野良仕事していた百姓に鍬を借り、無事に埋葬することができました。そして更にこの百姓に墓の管理を頼むかわりに何か今一番困ってることをかなえよう、と言うと、百姓は、「この辺りは雑草のじごくそば(どくだみ)が生い茂って困っている」と答えました。それ以降。村ではじごくそばが生えなくなったといいます。
この首を埋めた場所と言われているのが、結縁寺の東南300mの藪の中にある頼政塚です。塚には中世の板碑や文政9年の(1826)、安政4年(1857)の頼政公供養塔などが建っています。文政9年の供養塔は結縁寺が建立したとみられ、碑文には首を運んだ家臣の名を「下河邊藤三郎清恒」と記しています。塚の前には糸が供えられており、農作業で手首が痛くなった時に手首に巻くと痛みが消えるといわれています。道路から塚に入っていく小道の手前には、再建された頼政堂が建っています。
(2)名馬塚
結縁寺の南南西200mほどの場所には、頼政の首を運んできた馬を葬ったといわれる「名馬塚」があります。10数基の馬頭観音塔が祀られており、今も村人によって管理されています。
(3)入定塚
結縁寺の鎮守である熊野神社に登る階段の右手前には、入定塚があります。戦国時代の大永年間に、伊勢源氏の子孫、佐藤民部の娘が夢のお告げで頼政公の墓所を訪れ入定した場所といわれています。塚の前には享保9年(1724)造立の慰霊碑が建っています。
(4)頼政の松
木下の上町観音堂の本尊、十一面観音は、頼政の守本尊ともいわれていました。この観音堂境内入口には、樹齢約450年といわれた枝ぶりも見事な黒松があり、「頼政の松」と呼ばれていました。しかし老齢のため枯れ、昭和58年(1983)に伐採されてしまいました。
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