[2026年9月7日]
ID:21943

江戸時代、市域西側の台地には印西牧という牧場がありました。
印西牧は高田台牧、上野牧・中野牧、下野牧とともに小金牧に属していました。その範囲は、市域をはじめ柏・松戸・鎌ヶ谷・船橋・白井・習志野市など広域にわたっています。
小金牧は、佐倉牧、嶺岡牧、それと駿河国(静岡県)の愛鷹牧とともに幕府の直轄牧でした。幕府では公用の馬を確保するために、こうした直轄の牧場を置いたのです。
牧場は開放的で、野原には自然繁殖による「野馬」が放し飼いになっていました。文化11年(1814)刊行の『遊歴雑記』には、「木卸(木下)の路傍は釜がや(鎌ヶ谷)より白井迄二里余の間、皆小金が原の続きなれば、左右の平原にして野飼の馬は路傍に幾疋となく集ひ遊べば、たまゆら通行する人は珍しく思へり」と記されています。こうした光景は、木下街道を行く旅人にとって思いがけないことであったようです。
牧場は、牧士と呼ばれる人々によって管理されていました。牧士は、牧場周辺の有力な農民から選任され、名字帯刀や乗馬が許されて士分格の待遇を与えられました。牧士は、日頃から牧場内を見廻って、野馬の出産・斃死・傷病の発見や処置など生育状況の確認、牧場の環境保全にあたりました。
こうした中で、毎年、牧場では野馬捕りという行事が行われました。
牧士は、牧場に隣接する村々から動員した勢子と呼ばれる農民を指揮して野馬を追い出し、土手に囲まれた捕込という施設に入れました。ここで3歳馬を選び、そのほかは牧場に返しました。そして、3歳馬の中から不用な野馬は、運搬や農耕用として農民に払い下げられました。
また、小金牧では将軍による鹿狩が4回行われました。8代将軍将軍吉宗の享保10年(1725)・11年、11代将軍家斉の寛政7年(1795)、12代将軍家慶の嘉永2年(1849)です。
鹿狩の目的は、牧場に生息していた鹿・猪・狸・狐・兎・野鳥などによる農作物の被害をなくすことにありました。しかし、実際は将軍に同行していた旗本たちも鹿狩を楽しんでいますので、将軍の権威の誇示や軍事訓練を兼ねた武士の遊興でした。
鹿狩には、15歳から60歳の農民が勢子として動員されました。農民たちは、竹を手にして、ほら貝などを鳴らし、声をあげながら猪や鹿を指定された場所に追い込みました。
享保10年の鹿狩では、市域の大森村107人、惣深新田70人、竜腹寺村27人、平賀村55人、松虫村18人などを含めて、印旛・千葉・相馬・武蔵国葛飾郡の村々から1万人余が動員されています。
この鹿狩で猪3頭・鹿800頭・狼1頭・雉10羽を獲っています。翌年の吉宗の出で立ちは、鎌倉時代の源頼朝をまねたといわれています。
市域には鹿狩に動員された際に使用した小旗が残されていて、別所村の小旗には「人足拾人」と記されています。この小旗は、市の文化財に指定されています。
明治時代を迎えると、政府による窮民授産策で小金牧は開墾地となり、牧場は姿を消しました。今では、市の文化財に指定されている泉新田大木戸野馬堀遺跡が印西牧の往時を物語るものとなっています。
印西市役所教育委員会 生涯学習部文化振興課文化財係
電話: 0476-33-4714
ファクス: 0476-42-0033
電話番号のかけ間違いにご注意ください!