[2026年9月7日]
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北沼、西沼に分かれている印旛沼は、干拓・開発が行われる前の昭和30年(1950)ころは、面積21㎢、湖岸線60キロメートル、水深は1m、深いところでも3m程度のW字型をした沼でした。沼に注ぐ河川は、遠く千葉市士気を水源とする鹿島川をはじめ神崎川・高崎川・新川などいくつかありますが、排水は利根川と結ぶ長門川だけでした。
利根川が出水すると長門川から印旛沼に逆流し、沼周辺は洪水に見舞われました(外水洪水)。また、沼に注ぐ河川の増水によって沼の水はあふれ、洪水となることもありました(内水洪水)。印旛沼はコイやナマズ、ウナギが多く採れましたが洪水の後、水が引いた田んぼからは、取り残された魚を手づかみで採ることができました。
印旛沼は水深が浅いため水草が茂り、カモなどの鳥が飛来し、水面が真っ黒になることもありました。水草のない砂地のところからは、青い色のシジミやカラスガイが採れました。カラスガイはみがくと光沢が出るので、加工されて調度品の材料にされました。
印旛沼の洪水は、徳川幕府が利根川の流路を江戸湾から太平洋に付け替えたことから始まりました。以来、江戸時代には3回、印旛沼の水を疏水路で江戸湾に流す試みが行われました。この疏水路の掘削工事は3回とも、印旛沼の平戸(八千代市)から新川を逆流させて、江戸湾に注ぐ花見川につなぐものでした。しかし、この工事は新川と花見川の分水嶺を掘ることや、やわらかい泥の層を掘る工事で難航し、失敗に終わりました。
明治に入ってからも、印旛沼周辺はたびたびの洪水に見舞われました。この解決策として考えられたのは江戸時代と同じく、印旛沼の水を東京湾に放流することでした。しかし、疏水路の出発点の平戸の川底と、約17キロメートル先の花見川河口の検見川の川底との高低差は2m30センチメートルしかなく、計画は何度も立てられましたが、このルートで着工されることはなく、戦後を迎えることになりました。
この間、印旛沼の洪水対策としては、利根川の堤防工事や大正11年3月に竣工した印旛水門の建設がありました。印旛水門は長門川が利根川に注ぐ地点につくられ、利根川の増水時に水門を閉めて長門川への逆流を防ぐものでした。しかし、逆流は防いだとしても、印旛沼に流れ込む内水による洪水を防ぐため、東京湾への疏水路の建設は必要でした。
戦後になると食糧難の解決のため、全国的な開拓・干拓が計画されました。こうしたなか、昭和21年11月、国営印旛手賀干拓事業が閣議決定され、同月に着工されました。手賀・印旛両沼の水を疏水路に合流させて検見川で東京湾に放流する計画でした。しかし、工事ははかどらず、昭和25年に手賀沼の干拓事業を分離し、印旛沼の水だけを東京湾に放流する計画に変更されました。
その後、京葉工業地帯の建設が進むと、印旛沼からは農業用水に加えて工業用水も取水することになりました。このため昭和31年2月、干拓面積を縮小して佐倉市に西部調整池(西沼)をつくり、さらに昭和38年3月には北部調整池(北沼)をつくり、二つの調整池は揵水路を掘って結ぶことになりました。調整池の建設によって、干拓面積は当初計画の4割に縮小し、印旛沼干拓事業は印旛沼総合開発事業に名称が変わりました。なお、この揵水路の工事をしていた昭和41年6月、地表下23mからナウマン象のほぼ完全な化石骨が出土しました。双子公園にはナウマン象の親子の像が建てられています。
昭和44年3月、印旛沼総合開発事業が完了しました。沼の水位と東京湾との高低差が少ないことで疏水路の水が流れにくい問題は、八千代市の大和田機場で4.7m水をくみ上げて水位を増すことで解決しました。広々と水田の広がる山田地区には、地蔵さまのわきに圃場整備の記念碑が建てられています。
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