ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

スマートフォン表示用の情報をスキップ

木下河岸と木下街道

[2026年9月7日]

ID:22012

木下河岸と木下街道

江戸時代初め、利根川は、幕府の瀬替事業で、江戸湾から銚子に流れるようになりました。その利根川縁に設けられたのが木下河岸で、竹袋村のうちにありました。木下の名は、竹袋村から利根川に木を下したことに由来するといわれています。

木下河岸の前身は渡船場で、木下と布川(茨城県利根町)の間を結んでいました。その後、木下は次第に渡船場から河岸としての機能が整えられ、寛文期(1661~72)頃に旅客の木下茶船を設けたことから、木下河岸の繁栄の基が築かれたといわれています。

こうして木下河岸は、鹿島・香取・息栖の三社詣や銚子方面に遊覧する人々で賑わうようになり、「旅人河岸」として利根川の下流に向かう出船の独占権を獲得しました。

宝暦10年(1760)の記録によると、船は木下茶船20艘・小舟12艘となっています。木下河岸からの船賃は、1艘につき佐原村(香取市)まで木下茶船(80人乗り)銭700文・小船(4人乗り)銭400文、麻生村(茨城県行方市)まで木下茶船銭750文・小船銭424文、鹿島村(茨城県鹿嶋市)・小見川村(香取市)まで木下茶船銭800文・小船銭450文、銚子湊まで木下茶船銭1貫300文・小船銭800文と定められています。一方、関宿(野田市)までの船賃は定められていませんでした。その理由は、上り船になるために乗る人がいなかったからです。もし、乗船を望む人がいる場合は、互いに話し合って船賃を決めました。

安永7年~寛政元年(1778~89)まで12年間の平均出船数は約4350艘で、1日に約12艘が出船していたことになります。船は数の上では足りますが、季節によっては旅人が集中することもあったと思われます。

こうした状況を補ったのが、下流の村々から出稼ぎに来た「旅船」と呼ばれる船でした。この船は農作業に使われている「耕作田船」で、寛政3年には村数116か村、船頭1400人の「旅船」は木下河岸に登録されています。

この木下河岸の業務を担っていたのが河岸問屋の吉岡家です。吉岡家の遺した「旧記」や「諸書附類ならびに旧記書抜」は当時の木下河岸を知る上で貴重な資料として市の文化財に指定されています。

木下河岸の問屋は吉岡家1軒で、問屋場には船頭の定着や乗船の心得が張り出され、出船には「日締帳」に船頭や旅人の氏名・住所を記載しなければなりませんでした。

木下河岸には、木下街道が通じていました。木下街道は、行徳・八幡・鎌ヶ谷・白井・大森を通り木下河岸に至る街道で、江戸から下総・常陸の下利根川流域を結んでいました。木下河岸から船に乗る人、陸路で往来する人とさまざまで、高岡藩(成田市)・小見川藩などの大名、淀藩大森陣屋の役人も利用しました。また、文人画家として知られている三河国原藩(愛知県田原市)渡辺崋山をはじめ多くの文人墨客の姿も見られました。

安政5年(1858)の『利根川図志』に描かれている「木下河岸」図を見ると、その繁栄の様子をうかがうことができます。河岸には多くの船が繋がれていて、三社詣の船や白帆を上げた高瀬船が下流に向かっています。船着き場を上がった堤上には、船宿の「カベナシャ」「ミカドャ」が描かれ、家の中では人々がくつろいでいます。土橋を渡ると街道には人々が往来し、その両側には家々が軒を連ね、中央の高札場の奥には問屋が見えます。

天保11年(1840)ころで、武蔵屋・近江屋・伊勢屋・水戸屋・銚子屋・餅屋・味噌屋・畳屋のように、国名や地名を冠する屋号、職業を示す屋号の商家などが確認できます。

本村の竹袋村の家数と人数は、延享3年(1746)には170軒・572人でしたが、慶応元年(1865)には247軒・1229人となっています。

明治時代を迎えると、木下茶船や小船に代わって蒸気船が就航し、さらに繁栄の期待が高まりました。しかし、明治34年(1901)に開通した鉄道に人や物資が流れるようになり、船による運送が次第に衰退し、木下河岸はその役割を終えることとなります。


お問い合わせ

印西市役所教育委員会 生涯学習部文化振興課文化財係

電話: 0476-33-4714

ファクス: 0476-42-0033

電話番号のかけ間違いにご注意ください!

お問い合わせフォーム