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大森陣屋跡

[2026年9月7日]

ID:22157

大森陣屋跡

享保8年(1723)、佐倉藩主の稲葉正知が山城国淀(京都市伏見区)に移されました。その際、佐倉藩時代の領地のうち、下総国印旛・埴生・香取郡内の56か村・高2万4834石余が淀藩の飛地となりました。

当初の領地は、山城・摂津・河内・近江・下総・越後の6か国内にありましたが、下総領は淀藩全体の24パーセントを占めており、6か国の中で最も割合が高くなっています。

その後、領地に変動があり、幕末には57か村・高2万4557石余となっています。淀藩ではこの飛地を支配するために陣屋を設置しましたが、それは領民からの要望によるものでした。その理由は、御用の際に江戸屋敷まで出向かなければならないので、距離が遠く日数や費用が掛かるという問題が生じたからです。

陣屋は、以前大森村に置かれていた幕府の陣屋跡に建てられました。陣屋には役所・長屋・旅屋が設けられ、代官・手代・使番などの役人が常駐していました。代官は2人で、役宅の位置から東代官・西代官と呼ばれ、月番で勤務しました。代官は家族と一緒に生活していましたが、中には病死した代官・母・妹・妻・子ども2人を失うという不幸に見舞われた代官もいました。大森の長楽寺には、このように大森陣屋で亡くなった人々の墓があります。代官の下に置かれた手代と使番は、通常、手代3人、使番6人で構成されていました。使番は手代に昇進することもできました。使番に欠員が出ると、領内の村々に触れを出して希望者を募りました。条件は健康で実直な者となっています。

手代や使番の中には、市域の出身者もいました。慶応3年(1865)の場合、手代の武藤三蔵は和泉村、使番の篠原源助は物木村の出身です。大森陣屋は、現在の印西中学校近くの畑にありました。

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印西市役所教育委員会 生涯学習部文化振興課文化財係

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