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惣深開発

[2026年9月7日]

ID:22241

惣深開発

寛文・延宝期(1661~81)には、下利根川流域で新田開発が盛んとなり、市域では印旛沼縁の埜原新田14か村が成立し、手賀沼縁でも発作新田や亀成新田などの開発がありました。新田開発は下総台地にも及び、印西牧内の草深野と呼ばれていた原野が開発されて惣深新田が成立しました。

惣深新田の開発は、寛文10年に鰭ヶ崎村(流山市)の清重郎らが幕府の代官に提出した願書からはじまりました。その際、鰭ヶ崎組・千足組・三村組の請方と呼ばれる開発請負人の12人は、開発願いのことについて以後異変がないようにと大日如来を安置して誓詞を交わしました。これが大日塚です。

開発願いは延宝元年に許可され、1300町歩(1300ha)に及ぶ広大な土地を開発することになりました。しかし、開発資金がありませんでしたので、開発資金の借用にあたって保証人となる金主請負人として各組に1人ずつ置きました。この3人を加えて請方15人と称しました。

こうして草深野の開発がはじまりましたが、翌年になって結縁寺村の農民30人余りが早鐘をたたき、棒を持って押し掛けるという出来事が起きました。周辺の村々では、以前から草深野の一部を畑や草を採る秣場として利用してました。この開発によって新田ができると、これらを失うことになるので、何とか阻止しようとしたものです。

それでも開発は進み、延宝4年に幕府代官によって田畑の生産力を調べる検地が実施されることになりました。しかし、もともと広大な原野でしたので、検地役人が宿泊できる家がありませんでした。そこで、陣屋を建てて対応しました。

検地の結果、高4764石余の土地が得られました。そのうち高1994石余は、周辺の村々に配慮して、結縁寺・船尾・松崎・吉田・岩戸・造谷・角田・荒野・竜腹寺・滝・小林・別所・大森・鹿黒・宗甫・泉の16か村に新田として譲渡しました。

残りの高2769石余が惣深新田となり、このときに草の字が惣に改められました。

検地が終わると陣屋は廃止され、跡地は元禄16年(1703)に請方の所持となりました。

陣屋の跡地を加えた惣深新田は、高2774石余の大きな村でしたが、田方はわずかに10%で、残りが屋敷地を含めた畑方となっています。しかし、畑方のうち芝原地が82%を占めていて、実際の耕作地は少なく、畑には麦・稗・粟などを栽培していました。

延宝4年の家数と人数は120軒・558人でしたが、150年後の文政8年(1825)には65軒・319人と大幅に減少しています。

鎮守は稲荷大明神で、寺は妙光寺と医王院の2か寺がありました。

安永7年(1778)に創建された如意輪観音を本尊とする丸山観音堂には、52句を納めた雑俳額が奉納されています。また、境内の一角に文政6年の「野鹿の碑」の歌碑があり、「草深野鹿 正三位貞直 草ふかし野辺のまはきの花妻を こふるをしかも色にいてけり」と刻まれています。これらは、地域の文化の高さを物語っています。

同じ境内には、移築された六角庚申があります。この石塔は、明治15年(1882)に造られたもので、道が六方に分かれる辻にあったことから呼ばれるようになったといわれています。八角形の台座は道しるべとなっていて、「東成田道、此方佐倉道、南吉田川岸、此方船尾道、西白井道、北小林新田道、此方竜腹寺道」と刻まれています。

丸山観音堂に隣接する大師堂は、弘法大師を祀っていて、やや大きな大師像を中心にして89体が安置されています。これは四国八十八か所の霊場を模したもので、参拝すると同じご利益が得られるといわれ、印西地方でも各所に霊場が設けられましたが、すべての霊場が1か所にあるのは珍しい光景です。

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印西市役所教育委員会 生涯学習部文化振興課文化財係

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