[2026年9月7日]
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印西市役所本埜支所の東正面に小高い独立丘があり、天台宗南陽院の伽藍と墓地があります。その堂庭に碑文のある顕彰碑が建っていて、裏面には次のようなことが書かれています。
江戸時代正保~明暦のころ(1644~57)笠神に3人の義人がいました。笠神村は平坦で肥沃な土地柄で、村の東北部には利根川・印旛ガ浦に面した埜原が広がり、そこに生い茂る葦や草は燃料や田畑に肥料を供給する重要な土地でした。しかしそれは隣り合う小林村にも同じことで、帰属をめぐる係争は絶えることがありませんでした。
正保2年(1645)幕府は共有地と裁定しましたが、双方に不満が残ります。
明暦2年(1656)の秋、笠神村の庄吉、與五兵衛、源右衛門の3人は小林村と交渉しようと赴きますが、竹槍や鍬などを持った相手に取り囲まれてしまいます。憤然とした3人は格闘に挑み、数人を殺傷して凱旋しました。
これを知った幕府は3人を死刑としましたが、かねてからの笠神村の主張は聞き届けられ、笠神村地続きの埜原は笠神村の所有となったのです。数年後の寛文2年(1662)には笠神埜原に、幕府は埜原新田の開発を始めました。笠神村は3人の処刑地とされる村はずれに墓地を作り厚く葬りました。その後の開発によって、今は隣村となった押付の薬師堂の境内に墓地が残されています。菩提寺の南陽院に事件の顛末を記した顕彰碑が建てられたのは、自由民権運動が高揚した明治24年(1891)のことです。江戸時代中期、増加する人口を養うため各地で村境を巡る紛争が激発しました。
印西市役所教育委員会 生涯学習部文化振興課文化財係
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