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埜原新田と吉植家

[2026年9月7日]

ID:22421

埜原新田と吉植家

鍬を手に畑に立つ吉植庄亮

埜原新田とは印旛沼北西岸に広がる干拓低地一帯の通称で、十四ヶ新田、笠神埜原新田などとも呼ばれます。下利根川の開削工事に伴う川筋の村むら(現利根町など)の代替地として、寛文13年(1673)に新田村落として成立し、現在は印西市を代表する水田地帯となっています。

江戸幕府が利根川の付け替え(利根川東遷)を行ってからというもの、印旛沼は利根川の遊水地と化し、洪水が頻発するようになりました。現在でも、そうした洪水から家屋敷を守るため、敷地に高い盛り土をした水塚が多く残っています。

江戸時代には、洪水防止や新たな水運の整備を目的とする印旛沼開削計画が何度も計画されますが、有力な地元協力者の中に、下井新田の名主、2代続いて同名の吉植庄左衛門の名が見られます。幕末から明治期にかけては、息子の庄之輔が印旛沼開削に奔走します。吉植家にとって、印旛沼干拓は一族の宿願になっていました。

その夢をかなえたのが、庄之輔の息子、庄一郎です。若い頃より活動的だった庄一郎は、明治26年(1893)には水害の続く埜原新田の人びとを連れて開拓のため北海道に移住します。その後10年余りをへて帰郷した後は代議士に当選し、政治家として本格的に印旛沼の開拓に携わるようになります。庄一郎の尽力により、大正11年(1922)には印旛水門(現栄町)が完成し、利根川からの外水被害はなくなりました。

庄一郎の息子、庄亮は歌人、政治家としても有名ですが、印旛沼の開墾でも大きな功績を残しています。特に、県内外から農家を入植させ、大型トラクターで大規模集約経営を行った事業は、昭和前期としては極めて先駆者で、こうした5代にわたる吉植家のあくなき印旛沼開発への執念が、現在の埜原新田を生み出す原動力となったのです。


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